約50年間、日本が統治していた台湾には、日本統治時代の建築物が今も数多く残っています。
かつては台湾政治の中心だった台南は、寺院や孔廟、史跡、歴史的建築物が数多く残ることから「台湾の京都」と言われることもあります。
いわゆる「台南の観光スポット」を見ていくと、日本統治時代の建物や日本が何らかの形で関係した史跡が多いことに気付きます。
実際に私が訪れた、台南に残る日本統治時代にまつわる建築物や史跡を紹介してみたいと思います。
台南市中心部
台南駅
"Tainan Station". Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
1936年に竣工した台南駅(台鐵)。
台湾鉄路管理局が管理する駅の中でも2番目に利用人数が多い台湾最西端の駅です。
2階建の鉄筋コンクリート造りで、半円アーチの窓が特徴的。
建設当時は2階部分がホテル(客室は9室)として利用されており、設備は「台南屈指」と言われるほとで国外の賓客や皇室関係者も宿泊したことも。
駅舎内のホテルは1965年に営業を停止。併設のレストランも1986年に休止していましたが、2階部分を再整備して高級ホテルとして復活させる計画が出ています。
台南庁庁舎(国家台湾文学館)
1909年の廃藩置庁により、1916年に庁舎が建設されました。
戦中には連合軍の空襲による大きな被害を受け、戦後に修復されました。
1949年からは空軍供庁司令部、1969~1997年は台南市役所として使用。
現在は国立文化遺産保存センターと国立文学館、地下は図書館として開館しています。
文学館では台湾文学の発展に貢献した作家の紹介や企画展示が行なわれています。
日本統治時代の作家になると日本語で原稿が書かれている為、台湾語が全く分からなくても、その部分だけは読めました。
設計は森山松之助。台湾で数多くの官庁建築を手掛けています。
外観はマンサール様式(19世紀フランスのルーブル宮殿が代表的)で、ドーム屋根が特徴的。
台南合同庁舍
日本統治時代は消防署、警察会館、警察官吏派出所として利用された建物です。
「御大典紀念塔」とも呼ばれる中央の高い塔は、1930年に昭和天皇の即位を祝う為に作られました。
1937年には高塔の両側を「合同庁舍」として拡張。現在は消防署として使われています。
台南警察署
台南警察署(現:台南市警察局)は1930年に設立。
台中警察署と並び、日本統治時代に建設された現役の警察署の一つです。
鉄筋コンクリート造の2階建て。
交差点を正三角形の頂点に見立てると、線対称になっているのが特徴的です。
建設当初の外装は北投窯業社製のタイルや人造石でしたが、現在は台湾の警察署で一般的なあずき色のタイルが使われています。
台南大正公園※には、木造平屋建ての「警察派出所」があります。
外壁に珊瑚石灰岩を使うなど、瀟洒な洋館の姿を今に残します。
※1910年の日英博覧会で日本庭園を設計した井澤半之助の設計。
児玉源太郎(第4代総督)の銅像があったことから「児玉公園」とも呼ばれた時代もあります。戦後、児玉源太郎の像は撤去されています。
台南武徳殿
正式名称は「大日本武徳会台南支部武徳殿」。
元々は台南神社(戦後に廃社)の付属施設で、日本人の武士道精神を学び、武道(柔道や剣道)の鍛錬場として1936年に設立されました。
外見は伝統的な和風建築で、日本寺院のような屋根と正面の唐破風が特徴的。
鉄筋コンクリート造の2階建ての建物は、現在は忠義国民小学校の講堂になり、1階は事務局と倉庫、2階は講堂として利用されています。
山林事務所
日本統治時代の1902年、台南の山林を管理する為に設立。
戦後は楠農林管理処や林務局嘉義林區管理處臺南工作站として利用されており、2001年以降は1階がレストラン、2階が孔子廟を中心とした孔廟文化園区の観光案内所になっています。
台南愛国婦人会館
愛国婦人会は戦時中の主要な婦人団体の一つ。台北に本部、各州庁の都市部に支部が設置されました。
台南支部(=台南愛国婦人会館)は1920年に設立。日本の洋風建築そのままの建物です。
当時は北側に婦人会本部、南側に宿舎があり、中央廊下で行き来できるようになっていました。
戦後、紅十字会(日本で言う赤十字社)や、アメリカ文化交流局の領事業務や文化業務の拠点として利用されて、図書館も設立されました。
台湾とアメリカが断行した後、アメリカ文化交流局は撤退。
図書館の蔵書は台南市政府に寄贈されて、紅十字会も使用していた建物を図書館の分館として台南市政府に貸し出されました。
現在は台南市政府文化局の「文創plus-台南創意中心」として、台南の文化やクリエイティブ産業の支援をしたり、展示会の会場として使用されていたりします。
【美味しいもの情報】
台南愛国婦人会館のすぐ隣に、台南で最も古い&人気のジュースかき氷店「莉莉水果店(りりすいかてん)」があります。創立は1947年。日本統治時代からあり、店内の壁には統治時代の新聞も貼られています。
マンゴーかき氷
旧台南公会堂
清代末期に台南の地方官吏だった吳尚新が建造した吳園に、日本統治時代の1911年に建てられたのが「台南公館」です。
後に台南公会堂と呼ばれ、当時の市民の集会所として利用されていました。
戦後は「中山堂」と改名。
1955年には省立社教館となり、現在は芸文活動の中心として使われています。
十八卯茶屋
呉園と台南公会堂の敷地内にある「十八卯茶屋」は、1929年に柳下勇三氏によって造られた食堂「柳屋」を前身とする茶芸館です。
台南で有名な茶芸館「奉茶」オーナーが経営を引き受けた際「十八卯」と命名しました。
建物は3階建てで、茶芸館、茶室、展示室などとして利用されています。
赤崁楼(セキカンロウ)
1653年に台湾南部を占領したオランダ軍よって建設された、台南紫外地域で最も歴史が古い史跡です。
台湾の第一級古跡(日本の国宝や重要文化財にあたる)に指定されています。
原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)。
漢人はオランダ人を「紅毛」と呼んだ為、赤崁楼は「紅毛楼」や「番仔楼」とも言われます。
1661年に鄭成功がオランダを駆逐して、台湾を占領した際に中華風楼閣に改築。「東都承天府」と改名。台湾全島の最高行政機関としました。
1683年に鄭氏による台湾統治時代が終わる(=清の領土になる)と、武器を貯蔵する倉庫として利用されました。
1721年に朱一貴率いる鄭明(鄭氏政権)の生き残りが、清朝に対して反旗を翻すと、赤崁楼正面の鉄製門額を壊して武器を製造。
その後の赤崁楼は、人為的な破壊や風雨による侵食、地震などの影響を受けて、非常に荒廃しました。
1886年には文化教育の振興の為、赤嵌楼北側に蓬壺書院を建設。同時に赤嵌楼の基礎部分を埋めて、高台に文昌閣、五子祠、海神廟を作りました。
日本統治時代には一部を取り壊し。海神廟、文昌閣、五子祠は病院や医学生の宿舎として利用されました。
1921年台湾総督府によって大士殿の解体修復を行なった際、プロヴィンティア時代の堡門やオランダ時代の砲台跡が発掘。
戦後1974年に大規模修復が実施されて、現在の外観に至ります。
旧台南測候所(気象博物館)
"PICT0336". Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.
台南測候所(たいなんそつこうじょ)は気象を観測する気象施設として使われた建物です。
高さは約2~3階建て程度ですが、当時の台湾でも珍しい高層建築物で、中央の円塔は形から「胡椒管」とも呼ばれます。
外側は事務所、内側の円塔は各種計器類を設置。
レンガ造りを基本にした建築物で、外壁は建造当時は漆喰塗りでしたが、赤レンガに変わっています。
日本統治時代初期に台北、台中、台南、恆春、澎湖、台東、花蓮などに観測所、高雄に海洋観測所、阿里山に高山観測所を設置。気象観測を行ないました。
戦後は「台南気象局」に改められて、何度かの名称変更を経ながら、1998年まで気象観測業務が続けられていました。
同時期に建設された測候所は、日本を含めてほとんど取り壊されていることから、2003年には国定古跡として指定されています。
現在は気象博物館として一部が公開されています。
林百貨店
林百貨店は1932年に創立した日本の百貨店です。
「台南の銀座」と呼ばれる末広町2丁目(現在の中西区忠義路二段63號)に位置しており、日本統治時代の台南で唯一近代的なエレベーターを備えていました。
鉄筋コンクリート5階建の建物(その為「五棧樓仔(5階建てビル)」とも呼ばれます)は、1~4階は売り場、5階はレストラン、屋上階6階には機械室と展望台、屋上庭園、神社がありました。
1945年の連合軍による大規模な空襲で、屋上、神社、外壁、床などが損傷。
戦後、建物は改修されて台湾製塩総工場、空軍や警官の派出所などに使われました。
1980年代より空きビルになり、1998年に台南市より市定古跡に認定。
2013年に修復作業が終わり、創業当時の姿が再現されています。
2014年6月14日に、高青開発株式会社のプロデュースによる、特産品販売施設「林百貨」として開業。
文化や創意をテーマにした新しい様式の百貨店として利用されています。
旧知事官邸
1900年に建設された知事官邸は名前通り、知事の官邸として使用された他、皇族が台南へ来訪した際の宿泊地としても利用されました。
1923年には当時皇太子の昭和天皇が宿泊しています。
1階部分はカフェスペースとお土産売り場。ハヤシ百貨店と同じ高青開発株式会社がプロデュースしています。
以前は西洋レストランが入っていましたが、2015年にリニューアルオープンしました。
2階部分は資料室になっており、当時の知事官邸の雰囲気を味わえます。
安平エリア
安平古堡(あんぴん こほう)
安平古堡(あんぴん こほう)は、1624年に建設された台湾で最も古い城堡(=城)です。
1623年にオランダが台湾に進出した際、レンガを用いた簡易な城砦を築城。
その後、城砦を再建「奧倫治城」 (Fort Orange) と命名。1627年には「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia) と改名。
オランダ東インド会社の台湾統治の中心地として、行政や貿易を統括していました。
1662年、明を追われた鄭成功は、新しい拠点の構築に台湾へ進行。
オランダ勢力を一掃後は、「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia)を安平城と改名。鄭氏政権時代は3代に渡って王城として利用されました。
1683年、清による台湾統治が開始すると、安平城は軍装局として利用。城砦の重要度は下がり、改修も行なわれないまま荒廃。
1873年、イギリス軍艦の攻撃を受けた際、砲弾が城内の火薬庫に命中、爆発したことで、大きな被害を受けた城砦は廃墟と化してしまいます。
日本統治時代が始まった1895年には、外郭南部と内郭北側の壁が残されているだけでした。
1年後の1896年には城堡の修復を行ない、レンガを積み上げて現在の形へと再建。
城上部には日本式の税関高官の官邸、下部には職員宿舎を建設しました。
1930年に台湾文化300年記念式典の準備の為、官舎と宿舎を取り壊して、城の上部を洋風建築に改築。
1975年の大規模修復により、安平古堡の史跡資料館になっています。
赤い屋根が特徴的な展望台は同年に新たに造られたもので、安平古堡のランドマークになっています。
近年になり、外壁の一部は発掘されています。
レンガの城壁などは当時のものが残っており、濃い色のレンガはオランダ時代(産地はオランダ領インドネシア)、白いものは鄭成功時代(産地は中国福建省)に持ち込まれたものです。
戦後に国民党政府は城址を「安平古堡」と命名。城址の保護と国家一級古蹟の指定を行ないました。
ちなみに資料館は保護対象には入っていません。
また安平エリアには、1874年の日本の台湾出兵に対抗する為、清朝が防衛用に造った「億載金城(おくさいきんじょう)」という要塞もあります。
建設の資材として安平城城壁が使われています。
第一級古跡に指定。門外への通行には木橋が使われていましたが、日本統治時代に破損。鉄筋コンクリートの橋に建て直されています。
旧台湾総督府専売局台南支局安平分室(夕遊出張所)
日本政府は1899年に「食塩専売制度」を実施。
1901年に阿片を扱う台湾総督府製薬所、食塩を扱う台湾塩務局、樟脳を扱う台湾樟脳局を統合した「台湾総督府専売局」を設立しました。
台南地区の塩務場は「安平、塩埕、安順、湾裡」にあり、1922年に台湾総督府専売局塩務課は「台湾総督府専売局安平支局」を設立。
組織の合理化の為、1924年に「台湾総督府専売局台南支局安平分室」に改変されました。
第二次世界大戦初期には、事務所を宿舎として改築。現在は安平分室庁舍だけが残っています。
日本統治時代初期の日本式の西洋風建築スタイルが特徴。
建物全体は主に木造、屋根は日本の伝統様式、内部は天井板、玄関は唐破風+西洋柱様式、土台部分はレンガ積みになっています。
▲色々と間違っている気がする場所。
いかがでしたか?
▲台湾では自転車以上にバイクの利用率が高く、レンタバイク屋もある。
今回、台南観光の移動は、レンタバイクを使いましたが(二人乗りです)、本当にどこも見所が多い所なので、じっくり見て歩くには1日では時間が足りません。
バスやタクシーを使ったり、徒歩で行ったりするには、距離がある場合も多いので「これだけは見ておきたい」というのを予め決めて、計画立てると安心です。
台湾で全ての日本統治時代の建築物が残っている訳ではなく、1972年に日本と台湾が断交した際、中華民国政府が「日本の帝国主義的なものは排斥する」「当時の名残を薄める」として、各地の神社や日本人を祀る廟や銅像、建築物が取り壊しになりました。
それでも跡地に何らかの痕跡があったり、現地の人が必死の思いで守ったりしたことで、現在でも当時の様子を思うことができます。
台湾は外部の国から支配や領地された時代が長く、日本統治時代の建築物を見たり、日本文化の影響を実感したりすると「懐かしさや親しみ」だけではなく、手放しでは楽しめない、複雑な感情も持ってしまいます。
ただ単に「美味しいものを食べるだけ」ではなく「日本と関わりの深い台湾の歴史を知る」という目線で、台湾を訪れてみると、また新たな台湾の魅力や気付きが得られるように思いました。
(書いた人:昼時かをる)
【参考文献】
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